いや、書けることないくらい?傑作だと思います。何を書いても的を射ていない気がする。けれど。
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『ROCKIN'ON JAPAN』の2017年12月号は買い逃した。読み逃した。読みたかった。『音楽と人』は手に取った(そして読んだ)。『MUSICA』も読んだ。
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公式ウェブサイトに依れば「開けられずじまいの心の窓から」と「夢みたい」が(収録曲中では)最も古く、1997年ごろの楽曲ということなのだけれど、僕はそのころのsyrupに出会っていないので、感慨というほどのものはない。正直なところ。
僕の中では2004年10月10日の日比谷野外大音楽堂でのライブを以てsyrup16gの第一期は終了したという認識で、それ以降、2007年末の「END ROLL」ツアーが始まるまでの期間は、バンドの迷走期というか暗黒期というか、ライブはやっていたものの、バンドとしてはもう上手くいっていなかったんだろうなあと思います。そして2008年3月1日の日本武道館でのライブを最後に、解散をしてしまう。
その迷走期、暗黒期のライブで多くの(ホントに多くの)新曲が披露されていたのはファンの方々ならよくご存知のこと。それらの一部はアルバム『syrup16g』に収められた。けれどそれ以外は…表に出ることなく、出すことなく、バンドは消えてしまった。解散後にそれらを出してほしいとは、僕は思わなかった。商業的な匂いがしそうだったから。
解散後にさほど間をおかずに五十嵐さんは「犬が吠える」なんて変な名前のバンドを始めたけれど、それも数回ライブをやっただけで、またいなくなってしまった。その数回のライブを観れた僕は「光」で我知らず泣いたりしてしまった。やっぱりこの人すげえなあって思って。
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syrupがいなくなって、犬が吠えるもいなくなって。
もう音楽辞めちゃうのかなあ、そうなんだろうなあ、なんて思ってたら、ひょっこり戻ってきて(というか戻らざるを得なくなり)。ひょっこりではあるけれど、まあ今振り返ると、4年も5年も経っていたのですが。
再結成してもなんだよグダグダじゃねえかってバンドも多いと思うんですよ、世の中。でもsyrupは再結成後、いなかった期間を取り戻すように精力的に活動してくれて、リリースもするしライブもやるしで、沈黙なんてほとんど感じさせない。端から見ると絶好調だ。ライブを観てもバンドがいい調子なのは明らかで(創作に関してはギリギリっぽいことも言ったりしているけれど、どこまで真実味があるかは分からない)。
別の投稿で、「バンドが軌道に乗り始めた今こそ、過去の未発表曲たちリリースしてくれないかなあ」なんて書いたけれど、今回それが叶った形になる。
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初っ端の「光」改め「光のような」でいきなり打ち抜かれてしまった。ドラマチックなイントロを経てからの歌声が入る瞬間の、このゾクリとする感じ(どういった感情なのかは自分でも分からない)。歌詞は一部変わっているけれど、犬が吠える時代に披露された形とほぼ一緒だ。ミックスのせいなのか、なんなのか、いつもより声の抜けがよいというか、若さを感じるのは僕だけだろうか。曲調のせいもあるんだろうか。そこにある世界観に、荒井由実の「翳りゆく部屋」に通じるものを感じる。たとえ自分が死んでも「あの輝き」はもう戻らないという諦めと、中央線が止まっても最終に乗り遅れてもこの生活は終わらないという行き止まり感。日常的な描写に落とし込まれているけれど、「何か」が起きても、自分の今おかれた状況はもう変わらないんだという、諦念(もちろん、だからこそ、そこから見える光が、とても眩しい。とても)。それが底でつながっていはしまいか。syrupのライブで披露されることがあるのか分からないけれど、新たなマスターピースの予感がする。「光」から「光のような」に改めたのは、syrupらしくしたということなのかもしれない。
アルバムを聴いていて思うのは、やっぱり「今」じゃないよなということ。最新形に歌詞は書き換えられたりはしているんだろうけれど、この軽やかさ、ギターポップ然とした瑞々しいギターと厭世的な歌詞の同居によって香ってくるノスタルジアは、およそ今のsyrupからは出てこないように思う。もちろん録音してるのは今だから、今っていえば今なんですけども。たとえば「向日葵」にもあった、思春期の狂騒を冷徹な視線で突き放すような、あの感じ。インタビューを読むと、デモ段階で残っていたものは歌詞がついていないものも多く、それらには現在から当時を振り返ってそのそのときの心情に適した歌詞を充てたということなので(それも難しい作業だとは思うけれど)、やはりそこに「今」とは違うと感じるのは自然なことなのだろう。
「透明な日」とか「冴えないコード」(ライブで映えそうだなあ)とか「ラズベリー」とかは割と最近に寄っている気がします。線が太くて重々しいギターに寓話的というか抽象的な歌詞。
「夢みたい」はちょっと「希望」を彷彿させるけれど、こういった恋愛に直結した歌詞、「変拍子」もそうだけれど、これも「今」の歌にはもう出てこないように思う。「分かりあえた日々が 眩し過ぎて 見れないだけ」って、上手いなあと唸る。「愛しあった日々」とかじゃあないんだね。
今のところ一番好きなのは「光なき窓」なんですが、このサビがどこだかハッキリしないまま、ミニマルな展開の中でメロディを上下させる作り方、syrupっぽいし、すごく好き。低空飛行から始まって、やがて空高く飛んでいくような歌唱、シャウトも胸に迫る。アルバムの冒頭が「光のような」でラストが「光なき窓」って絶対意図的だと思うんですが、この舞い踊るような輝かしいギターのイントロと対比するような寂しげな歌詞で描かれているのは、果たして希望なのか、絶望なのか。
今の暗いくせにパワフルな曲調も好きだけれど、この軽やかなメロディの裏で人生を憂うっていうのが、やっぱりsyrupだよなあって思ったし、改めて五十嵐さんのメロディメイカーっぷりを見せつけられた気がします(本当にPOPだ)。電車の中でも、家事の最中でも、食事中でも、隙さえあれば聴いています。メロディが抜きんでているのもあるんでしょうが、プラスノスタルジックっていうのもありますし、一時は表舞台から姿を消したと思われた楽曲たちが(曲によっては)20年以上もの歳月を経て音源化されたという意義深さもあり、僕は「傑作」という言葉を送ります。まったく文句がない。今までで一番聴いたアルバムは間違いなく『クーデター』なのだけれど、それを抜く予感がする。
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前にも似たようなこと書いたけれど、上に書いた大音楽堂のライブからもう13年経ったというのが本当に(本当に)信じられない。しかしそれは事実なのです…。生活環境が変わってsyrupを(というか、音楽を)聴かなくなった人もいるでしょう(前にインタビューで五十嵐さんも似たようなことを言ってましたが)。でもこうして、バンドは今も存続、継続しているし、「傑作」を届けてくれている。僕は今も聴いている。自分自身が、変わっていないってことなのかな。好きなバンドと一緒に年をとれるということは、幸せなこと、だと思っている。「幸せ」、ですよね?(笑)
ありがとうございます。
このアルバムで一度バンドが清算された、というようなことを五十嵐さん言ってますが、いや、まだ出てない曲あるしー、「ディレイドシリーズはいつでも出せる」と言っているので、これで終わりって感じでもないみたいだけど。ツアー終わったらしばらくお休みしてもよいので、新作と共にディレイドシリーズも継続してほしい。
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でもこのあと『darc』を聴くとそんなにメロディが弱いとは思わなくて、じゃあこのアルバムとの違いって何なんだろうって思うと、アレンジなのかなあって思ったりもするんですが、結局よく分からない。やっぱり『darc』は不思議なアルバムだ。
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人は孤独で。どんなに大勢に紛れようとも、いや紛れたときこそ、それは色濃くなるのかもしれない。そしてsyrupの音楽、そこにある「孤独」に惹かれるのは、自身が孤独だからだろうか、それとも、孤独に憧れるからだろうか。たとえば電車の中のような雑踏で、イヤホンを耳につけ聴いていると、さびしくなると同時に、僕はとても安心してしまう。孤独。
syrup16gの『delaidback』を聴いています。
2017/11/23
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