泉まくら - 愛ならば知っている



恋する気持ち、それと少しの(あるいは失くした)愛。世の中への失望。

とても聴き流せるような、つまりBGMにできるような作品ではなくて、僕はヘッドフォンをつけて歌詞カードを読みながら、あるいは虚空を睨みつつ歌詞に耳を凝らしながら、聴くことしかできません。非常に聴くことに集中力を要する作品で、つまり濃ゆい。特濃といってもよいくらいじゃないかと思うのです。これを聴き流すことは聴かないことと同じであるような気がしてしまうのです。

発売時にネット上で公開されたトラックを聴く限りで、僕は今作の重さには気づいていたようで、だからこそ敬遠していた(購入していなかった)のです。わざわざ「重い」と感じたくなる道理はないでしょう? 進んで胃もたれしたいなんて人、そうそういないでしょう? そういう心持だったんです。耐えられそうになかったから。

じゃあなんで今購入して聴いて、こうやって何やら認(したた)めているのかという話ですが、それは詳細は秘密。僕が今作と釣り合うくらいに「重い」何かを携えているということかもしれません。僕の中で行き場をなくしているように思える、その重さを、今作のそれとぶつけて、バランスを取ろうとしているのかもしれません。心のバランスを。

鋭いリリック―それはときに鋭すぎて論理を見いだせない時もあるのだけれど、そこにあるメッセージを直感的に心が理解してしまった時の破壊力たるや凄まじい―、即効的なポップからは絶妙に距離を置いたメロディックなフレーズたち(これは敢えてなのか?)、切羽詰まったような、それでいて囁くような、ナイーブな歌唱。

怒ってる時に悠長に歌なんか歌ってられるかよ、そんな理由でラップというものが始まった、のかどうかは僕は知らないけれど、泉まくらのスタイルには必然を感じるのです。「baby」の中に「サビくらい余裕見せて歌いたいのに」というラインがあるけれど、そう、余裕のなさを感じるのです。心がずっとずっと先を走っているから、落ち着いて歌なんか歌ってられない、その感じ。言葉を紡ぐだけで精いっぱいの様子。それが今作に重さを生んでいるひとつの要因であると思います。

すべてのトラックに何がしかの感情が宿っていて、いちいちがビンタのように響くのです。手に入らないもの、失くしたもの、失くしそうな何か。「pinky」なんて3分くらいしかないのに、この凝縮された感情は何なんだろう。言葉だけ抜き出してもぜんぜん足りないのだけれど―「本当に欲しいものはゾゾには無いんだ/Dホリックにない/タワレコオンラインにも無いんだ/ピージェイのカタログはもう要らないんだ」、人間関係で思いつめたときに感じるこのネットの無力さ、もどかしさっていうんですかね、すごく分かります。ただ会いたいだけ、それだけ、それに勝るものなどないっていう、その気持ち。「世界なんてどうでもよくて」という気持ち。この短歌を思い出しました―「ネットでは 調べられないことがある たとえば君の 好きな人とか」。

僕は「pinky」と「YOU」が好きなんだけど(やっぱりポップだからかな!)、「YOU」のリリックもすごくスキ。「オーベイビー この世で一番の贅沢は/すべての人が欲しがるものに見向きもしないこと/見つめ合う今の二人そのものと/どうか気づいて」―こんな考え方、どうやったらできるんだろうか。ここにもやっぱり、世界なんてどうでもいい、二人だけで、ってそんな思いが滲んでますよね(佐良直美の『世界は二人のために』と似た世界観かと思いましたが、考えてたらよく分からなくなってきました。誰か考えてください)。「意地になって大事にしてきたもの/そんなの全部どうでもよくなる危なっかしい一瞬/間違えてときめきと呼んだまま生きたい/君が傍で見せる表情に/いつも目が眩みそうなんだ」。「間違えて」という言葉に後ろめたさがあるから、そこ―そのときめきにある引力が、いかに抗いがたいものかが伝わってくる。歌詞カード読みながら聴いてると、いつもわけのわからないままに、目が潤んでくるのです。きっとそこにある切実さが胸を打つのでしょう。

失くしてしまった何かを唄っているように思える「幻」は、どこか、自分自身に重なります(こんな話はよくあることです)。僕の場合、そのシーンは落ち葉ではなくて桜なんですけれどね。「愛想笑いで過ごしてるわけじゃなくて/あなたを忘れるのはひどいことに思えて/だって頭に浮かぶあなたが笑顔じゃないから/勘違いだってもう確かめようがないから」―僕が、自分はあのときなんであんなことを言ったんだろう、なんでだろうと思って悩んでしまったときは、きっとあの人はもう僕のことなど忘れて、僕とは関係のないところで泣いたり笑ったりしているのだろうって、そう思って、やり過ごすことにしているのです。地面に散った桜の花びらにしゃがみ込むあの人を見ていたとき、僕は確かに幸せだった、のかもしれない。「あれがまぼろしだとしても」。だったら、それで悩むことはもうないのかもしれない。なんて、悲しいけれど、ちょっと前向きになってしまったり(まあ、勝手な気持ちの切り替わり)。と、話逸れてる。

恋、愛についてのトラックたちの中で異彩を放つのが「Lullaby」(pro.by 食品まつり。ジューク/フットワーク、あるいはトラップっぽいバックトラック。かっこいい)や「Circus」でしょうか。深く掘り下げませんが、テーマは決して明るくないと思います。その点も踏まえて、僕の中では今作けっこうギリギリのラインにいるように思うのですが、どうなんでしょう。伝えたいことと音楽のバランスがもうギッチギチにがっぷり四つに組んでると言いますか。表現者として自分の重さにつぶされないだろうかとか、心配になってしまいました(極端にいえばただのポエムになっちゃうとかね、極端にいえばですよ)。そのぐらいにギリギリのところでバランスを取ってる気がします。ラストの「明日を待っている」でそのギリギリ感は軽減されているように思いますが―変わらない日々の中で不安や迷いを抱えつつも、それでも、いやそれだったら、「そうやって生きていくならばいっそ/深呼吸のスピードでいい/明日を待っているよ」。それでも全体に立ち込めるギリギリ感は、いぜん、色濃いです。

「愛」をテーマにしているという言葉にウソ偽りはなく、切実さゆえの危うさはリアルで、恋してる人が聴いたらたぶん一発でノックアウトされそうな、傑作だと思います。恋や愛による幸せではなくて、そこにある痛み。それが充満しています。購入を見送っていた時から評価が180度ひっくり返ってますが、自分でも驚いています。何なら今までの中で一番好きかもしれません。トラックつまみ聴きじゃなくてトータルで聴かなければいけなかったのかもしれません。あと自分が言葉を好きだということも思い出させてくれました。やはり泉まくらの言葉には力があるのです。それは魔法というべきかもしれません。

11月4日には『P.S.』のリリースがアナウンスされています。迷わず予約した僕です。どんな調子で来るのか、期待と不安でいっぱいです。心して待ちます。






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