syrup16gの『darc』をきいています。



※画像は『darc』とは関係ありません。


『darc』に関連したインタビューでは『音楽と人』のものが一番ピンときました。「ああ今五十嵐さんそういう状態なんだなあ」、「あのときそうだったんだ」というのがよく分かる、リスナーというか僕のかゆいところを掻いてくれた、素敵なインタビューでした(そこはさすが金光さんというべきか)。

その中にあった―

「そもそも伝えたいことなんて全然ないし、湧き上がる衝動のようなものって、もはや僕にはないんですよ」

―という言葉。

「作る動機やモチベーションが昔から変わらない」という話の流れから出た言葉なので、「伝えたいことがない」ってのは「昔から」のことだと解釈できるにしても、それと合わせて「湧き上がる衝動がもはやない」というのは、これは以前にも似たような言葉を言っているかと思うんですが、「もはや」ということは「昔はあった」ということで、それが「今はない」ということです。改めて言われるとちょっとショッキングです。だって言いたいこともないし、衝動もない(注意点としては、「湧き上がる衝動」はない、ということだけれど)ということは、ある種の表現者(というとまた大げさかもしれないけれど)としては、致命的にも思えるからです。(今引用した五十嵐さんの言葉がどれほど真実味のある言葉なのかということも、大いに考慮すべきかもしれませんが)

でもそれでも五十嵐隆は曲を作るし、自分でその歌を唄うのです。なぜか?

バンドを解散して、憧れていた普通の生き方を目指すも、「やっぱり俺、普通に向いてないんじゃないかって結論にはどうしてもなって。でも死ぬ勇気もなくて、全部辞めて逃亡……はあ」という言葉にあるように、どこにも行けなくなって、結局「ここ」に戻ってくることしかできなかったからでしょう(「戻された」という方が正確なのかもしれません)。どんな過程があって「普通に向いてない」って思ったのかは分からないし、「普通」ってのがサラリーマン的に働くって意味だったら、若いときはあっちやこっちでバイトしてたはずだし、(これもバイトだけど)ビデオ屋でいいポジションまでいったはずだし、だから働くのは大丈夫なんじゃないですか?って思ったりもするんだけど、何もなしにいきなり「死ぬ勇気もない」とか穏やかじゃない思考に至るはずもないので、何かしらの挫折があったのかもしれません。

「再結成」という言葉が冠された『Hurt』とは違って、今回の『darc』にはそういった付加的な要素―ステータス補正と言ってもいいかもしれません―がありません。なのでここで真価を問われるというと言い過ぎだけれど、いよいよバンドのポテンシャルが(非常に)気にされるタイミングでもあります。

その絶好のタイミングに合わせて、その辺りの―五十嵐隆は「音楽」に戻ってきて、改めて「ここ」でやっていくことに対して、どういう心境なのかっていうところが、『音楽と人』では分かりやすく語られていて、でも分かりやすい反面、僕は非常にやるせなくなってしまって、なんだか泣きそうになってしまいました。嬉しいとか悲しいとかじゃなくて、だって言いたいこともないし、強い衝動もないし、「カラカラになりつつある井戸」という自覚もあるし、あと引用ばかりでスイマセンが、これで最後です―

「ただでもシロップ解散の時点で一応やりきってはいて、そこからはもう、自分では未知なんですよ。音楽やるってことが今どんだけリスキーなことかっていうのもあるし。これしか出来ないから始めちゃったけど、もう契約社員みたいに、1年1年更新していくような形でしかやっていかないだろうなって思うし。そういう意味では諦観したっていうか」

―こんな風に思いながら(ちょっと喋り過ぎな気もしますよ五十嵐さん…!)、それでも音楽やるってどうなんだよ、いや続けてくれてありがとうございますって気持ちもあるんだけど、どんだけの覚悟というか、チャレンジャーすぎるんじゃねえの?って、もういつ終わってもおかしくないみたいな、ギリギリすぎるでしょなんて危なっかしいバンドだよって、そう思って、なんていうんでしょう、言葉で言い表せない、変な重みってやつが心にのしかかってきて、しばらくぼんやりしてしまいました。…でも五十嵐さんが河川敷で笑ってる写真見たら、ほっこりして、自分も笑ってしまいました。

今更当たり前すぎて本当に誰もスルーしてるけれど、とっくのとうに五十嵐さんは唄っていた―

「歌うたって稼ぐ 金を取る シラフなって冷める あおざめる / 辛くなってやめる あきらめる 他に何か出来る?」

―そのまんますぎる…。

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syrupの曲というか作品がスルメって言われるのは分かります。何回も聴いて味が分かるというか、即効性がない分、長く、飽きずに聴くことができるというか。思い返しても、聴いて1発でスッと耳と心に入ってきた曲というのが、syrupの場合ほとんどない。『coup d'Etat』なんて試聴機で聴いた瞬間に、こんなバンドだったっけ?って思ったこと覚えてます。今やライブの定番曲が並んでる傑作ですし、現時点でのキャリアの中では僕のベストになってます。

スルメっていうのもそうだけど、僕はsyrupの作品にはツンデレ的な部分があると思っていて、そのまんまの意味ではないんだけど、syrupは特に第一期終了前後くらいからですかね、失礼を承知で書きますが「ん…この曲は…良いの?」って思うことが増えたように記憶しています。本当に失礼ですが。でも良い曲は本当に良いんですよ! そのふり幅が実に大きい。挨拶無視されて凹んでたら、急に笑顔で話しかけてきた、みたいな。そういう意味でツンデレ的だと思ったのです。何か奇妙というか失礼な論理ですが、そのふり幅の論理はライブにもあてはまるもので、もちろんライブは水ものですし、どんなベテランだって出来不出来はあるだろうし、こっち側、観る側の問題もあって、その良し悪しもひっくるめてライブとして楽しむものだと思うんだけど、syrupのライブもやはり良いときとそうでないときの落差があったりして、その良いときを体験した人は「きっと次も」って期待して、それで通ってしまうと思うんですよ(逆の場合、足が遠のく人もいるでしょう、もちろん)。どんなバンドにも当てはまることかもしれませんが、やっぱりツンデレ的だよな、って思います。

ご多分に漏れず、『darc』でいうなら、「I'll be there」です。突出している。白眉というほかない。「そっちだ!そっちへ行ってくれ!」って方向に見事にメロディが展開していった。『MUSICA』で鹿野さんがいう「集大成」っていうのにはあまりピンとこなかったんだけど、確かにsyrupが抱える普遍的なテーマというのが、そこにあるのかもしれません。置いて行かれたものの視点。怒りや悲しみではなく、諦め。まどろっこしい言い方をやめると、「やっぱいい曲書くなあ!」ってその一言に尽きる。実は初聴きでちょっと泣いた。終盤のギターフレーズまで含めて全部好き。同じような体験は犬が吠えるのライブで「光」を聴いたときにもあって、あのときも会場で「やっぱこの人すごいなあ、すげーいい曲じゃん」って思ったら、ホロリと涙が出ていた(と書くと涙もろいように思われるかもしれませんが、ライブで泣くということはそうそうないのです)。

こういう曲が書けることを考えると、他の曲ではあえてメロディ抑えてるのかなって思ったりもするんだけど、どうなんでしょう。メロディ全開にしたら、syrupらしくはなくなるかもしれないけど、もっとポップなのが作れるんじゃないかなって気がちょっとしました(1回やって欲しいけど絶対やらないでしょう)。『Free Throw』だか『COPY』だかのインタビューで、自分たちの曲は抜けが悪いって言ってたように記憶してますが、確かにそれはずっと変わらないし、『darc』でも変わってないし、つまり『darc』はポップな部分はあるけれど、ぜんぜん抜けが良くないし、ついでに暗い。ぜんぜん売れ線ではないです。

でも僕は1回聴いてすごく好きになったし、あまり過去作との比較は本望ではないんですが、触感としては『coup d'Etat』を思い出しました。この「くっらいなあ…」って第一印象。バランスが良いんだか悪いんだかよく分からない楽器音たちは気持ち悪いくらいの生々しさで、「Cassis soda & Honeymoon」(この意味の分からなさよ!)の冒頭のドラムでゾクリとする。緊張感が半端ない。コンクリート打ちっぱなしの閉塞空間で天井見上げて、見えない空に憧れてる、みたいな、息詰まり感。ダブルミーニングというか言葉遊びの要素も(おそらく意識的だと思うんだけど)、顕著にカムバックしています。「You're lights goes down, going down」と「世はLIEと業だ 強引だ」は、面白いけど、ホント強引だなって思いました(笑)。あと「Find the answer」って作中では割と風通しの良い楽曲なのに、唐突にサラリと「吐きそうだ 御免」って、答え探しの途中で弱さを見せるところも面白い。言葉遊びメインになってしまうと辟易してしまいますが(ワガママ)、『darc』はよいバランスです。耳だけで聴いてると、ちょっと歌詞がすんなり追えなかったりするけど、それはご愛嬌。ああ、あとどことなく宗教色というか、神の影がちらつくところも、『coup d'Etat』に重なりました。

「Father's Day」は実はライブ映えする曲ではなかろうか。ヌワーンとしたボーカルラインの後ろで、ドラムとベース、リズム隊の暴れっぷりが見逃せない。燃える。「Missing」は「ニセモノ」あたりから感じ始めた演歌感というか、歌謡曲感が再び匂い立つ。グラムとはまた違うんだけれど(でもあのバンドが唄ったら似合いそう)、僕の中ではこれも今やsyrupのカラーの一つ。「きたきたこの調子」って感じ。

生々しい音作り、(苦労の末かとは思いますが)往年を彷彿させる鋭角的かつユニークな歌詞。歌詞の内容は相変わらず出口のない脳内迷宮的な酩酊感(多分にパーソナル)なので、とっつきづらいです。もっと分かりやすく直接的でよいような気もするし(実際今作でもそういう部分はビックリするくらいいともたやすく心に刺さってくる)、普遍的というか―分かりやすく言えば失恋とか―、そういう多くの人が共感(というと嘘くさいか?)できそうな要素になると(もうならないかなあ)、全然違って聞こえると思うけど、きっと嘘は唄いたくないと思うので、それを望むのは難しいんだと思います。『coup d'Etat』が好きな自分としてはああいう衝動性や直接的な分かりやすさ、パンチ力を期待してしまうのですが、もう衝動はないのだから仕方ない! 歌入れでどうにもテンションが落ちているというか嘘が入っているような気がして、結局ほとんど仮歌を採用したことで生まれているこのゆらぎというか、ナチュラル感というか、全体的な生々しい音作りが僕はすごく好きなんですね(バンドとしては不本意かもしれませんが、このちょっとグロテスクな質感、僕はMarilyn Mansonの「The Nobodies(Acoustic)」に通じるものを感じました)、だからこれまでと比較してどうこうではなくて、今作には特別な中毒性があるように思います。せっかく買ったからそんなに気に入ってないけど、とりあえず何回か聴いて自分に馴染ませような的な、そういう聴き方ではない、由緒正しいリピートを実際にしています。

「メメント・モリ」は、Wikipediaから引用すれば―『ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」』という意味であるから、「メメントもらず」ってことはそれを忘れるってことでしょう。「スケベな内に」ってのはエロい意味ではなくて(いやそれも含んでるかもしれないけれど)、生きていくことに対する下心、欲望がある内に、この状況を「受け入れ」ようじゃないかっていう宣言なのかなあ。曲調に反して何となく前向き?って思ったら、次のセンテンスで「受け入れる 振り」って言っちゃってるし…。ちなみにカシスソーダには酒言葉というのがあって、それは「あなたは魅力的」らしい。ハネムーンは「蜜月」。五十嵐さんがここでそのイメージを利用してるのかは分からないけれど、なんとなく喪失感がにじむ。

上に書いたような、引用したような心情でバンド続けてるって考えたら、安易に「おかえり」とか言えなくなりました。ブラックジョークでしょうそんなの。「なんだ、戻ってきちまったのかよ、へへ、おかえり(ニヤリ)」みたいな、黒い笑いしか似合わない。


かくしてバンドのポテンシャルは(僕には)存分に示されたわけですが、まだこんなもんじゃないと思ってる、いや信じているので、その片鱗をライブでぜひ確かめたいと思います。武者震いしそう。


何回も書くけど、解散前に沢山あった未発表曲、どこかのタイミングでリリースして欲しいです。切に願います。『delayed』や『delaydead』だってあるわけですし。そういうコンセプトでいけないかなあ。再結成して、バンドが軌道に乗ってきた(ように思える)次作あたりとか、どうかなあ。ひっそりとだけど、ずっとずっと期待してます。マジで。


過去作と比較したらどこに軍配が上がるのかって方向に頭が行きかけましたが、そこは割愛。


あと前からうすうす思ってたけど、syrupの曲がちょっと変わったのは元ベースの佐藤さんがいなくなってからのように思います。佐藤さんがいなくなったときがひとつの区切りだったと、いつか五十嵐さんも語っていたので、少なくない影響がある…のかなあ…それは当然あるか。別にどっちがどうということではないんですけれど。


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参考・引用文献

金光浩史. 2016. 絶望の向こう側.
音楽と人, 10(18), 128-135. 株式会社 音楽と人

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