「再発」ライブのあと、わりと近しいところにいる人たちがそろって、syrup16gの精力的な活動をほのめかしはしなかった。むしろその逆で、ゆっくり見守りましょうというニュアンスの意見が多かったように記憶しています。それはコンスタントなリリースやライブを期待させるものでは当然なくて、syrupというバンドはホントに大事にされてるんだなあと思うと同時に、まだどうなるか分からない感じなのかなあって、不安を煽りもしました。
だから何年かに一回ポソッとアルバムなり作品だして、東名阪でライブみたいな、のんびりした活動を、なんとなく考えていました。でも蓋を開けてみたら、とりあえず一年も経たないうちにこうやって作品を届けてくれました。ツアーも組まれているし、なんともうれしい限りではないですか。
『Kranke』は賛否吹き荒れる(というようほどの嵐は起こしていないけれども)作品になってしまったようです。
確かに詰め込んできてる感じがすごくあって、統一感はないように感じます。何を求めているかによって感想は大きく異なるんでしょうね。僕は前にも書いたかもしれませんが、もうsyrupに涙を求めてはいないので、五十嵐さんの作るメロディと声があれば、満足できちゃうかなあって、何か聴き方としてはレイドバックしてしまったようなところもあるので、ぜんぜん否定的には捉えてません。挑戦してくれてもいいし、たとえ焼き直しを食らわしてきたところで、結局受け入れてしまうんだろうなあって、これはあまりよいリスナーではないかもしれませんね。
メロディがどこか突き抜けていないというのも分かりますし、歌詞の抽象性が高いというか観念的なのも確か。たとえば過去のインタビューで―
「うん。自分がもう思春期じゃないっていうのは
どうしようもないから。
そこは否定しないで。
でもなんか、歌になるものを探していって、
今までみたいに……ものすごい傷付いたりとかね、
初恋の時の喜びとかね、そういう感情のリミットを
音楽に閉じ込めたりとか、そういうことは
多分難しいけど、本当の日常の中にあるものを、
なんか音楽にしていく、のかな」
(『音楽と人』,vol.126,p.170)
―って自覚しているように、もう初期衝動的なドロドロと煮えたぎって、それでいて瞬発力のあるものはおそらく出てこない。歌詞だけで考えてみたって、五十嵐さんは進んで色んな体験をする人には思えない(誤解かもしれないけど)ので、自身を歌詞に落とし込むタイプとしては、どうしたって引き出しが減ってくるであろうことは予想できる。だから自分と世界の関係性についてのグルグルした抽象的な歌詞にならざるを得ないんじゃないか。別にそれが悪いということではなくて(実際キレがなくなったとはあまり思わない)。と、書いていて思い出したのが、阿刀田高さんの『アイデアを捜せ』というエッセイ集の、一篇(これがsyrupに当てはまるという話ではなくて、あくまで思い出したから書いているだけです)。
阿刀田さんはその一篇の中で、小説の出来る過程を数式、x×y=cで示している。cは定数、つまり一定で、これは作品の出来を示す値とする。xはアイデアを捜す力、yは小説を書くテクニック(阿刀田さんは「工房の能力」という表現をしている)とする。cが64のとき、xが8ならばyは8で済むが、xが4になってしまったら、yは16にしなければ、cを64には保てないというわけ。しかし思いつけるアイデアにも限度があるし、工房の能力とて無限に上がり続けるわけではない。ということは作品の質(c)を一定に保つためには、並々ならぬ努力が必要ということになる。だからテクニックもない新人の内にアイデアを使い捲ってしまうと、アイデアが枯渇しても、テクニックがないから何のフォローも出来ない、ということで、作品はドンドン貧弱になってしまうという恐るべき構造を分かりやすく言ってくれている。
音楽にも似たような構造があるかもしれないなあって、何となく思いますよね。あとスティーブン・キングの近年の書き方について「もうテクニックだけで書いてる」というニュアンスの言葉を誰かが言っていたのを思い出しましたが、誰でしたっけね、山田悠介さんだったかなあ・・・。でもたとえばネタが同じでも、テクニックでその見せ方、切り口を変えて提示できるってのはやっぱり才能だと思うし、僕の好きな花村萬月さんとかもその傾向がある(あった)し、重松清さんなんかも作品は変わっても根っこの部分は変わらずにいると思うので(というほど読んでないですね。すいません)、僕はテクニックに重きを置く形に否定的な気持ちはありません(あまり)。
ずいぶん話が逸れておりますが?、とりあえずやっぱりというべきかなんというか「冷たい掌」が一番好きです。途中で調子がガラリと変わるような構造はなんとなく「パープルムカデ」を彷彿。ゆるやかに放たれるサビは爆発力はないかもしれないけれど、やっぱりきれいで儚くて。サビのあとにグーンと滑るようなベースラインがすごくスキ。
「vampire's store」は、もともと僕がsyrupの曲でこういう疾走系のものをあまり好きでないというのがあるので(ライブではよいんですけどね…)、それほどガツンとはこず。「病名は無いが 患者」とか、「金箔の裸眼 見開いて 十把一絡げ Sorryで 即神成仏 磨いて 膝枕」とか、意味わかんねーけど、面白い歌詞で(「バリで死す」の言葉遊びを思い出す。あと「回送」の不思議なイメージにも近い)、曲調やメロディが違ったら、すごくスキになってたかもしれません。
「songline(Interlude)」は、「オー、オー、アッアッエッ」と無気力な顔でマイクに歌いかける五十嵐氏を想像して微笑む(この聴き方はどうなんだ)。
「Thank you」はちょっと「旅立ちの歌」系ですね。ヒラヒラと飛翔系。解散前後で獲得されたと思われるキラキラ感。歌詞は肯定的とも否定(自虐)的とも取れるけれど、そんな意味合いすらもたせずに、単なるオレの心情実況報告みたいな。どうとでもとってくれっていう。曲調も歌詞もストレートで聴いてて気恥ずかしい気がしなくもない。解散時に散ったと思われた青春が、まだ終わってない様子が感じ取れます(結局)。
「To be honor」はアルバムの最後だったらなあ!ってすごく思う。似合ったんじゃないかなあ、このリバーヴ感というか包容力というか、壮大な感じ。EPのここにあると唐突感が。あとやっぱりフォークの人なのかなあってのを感じます。ダイナミックなバンドサウンドに囲まれてはいますが、ギターポロポロ弾いて、歌だけでもイケる曲だと思いますコレは。「数秒間の静寂が 永遠より長すぎるから とりあえず喋ろう」って、俺は休まず歌い続けるよっていう決意表明にもとれなくもないですが、穿ちすぎですよね、ええ、きっとそうですよね。
ということでレジェンドになるにはまだ早い、というかなって欲しくないので、これからも安定の迷走感で、安全に徐行運転してほしいと思います。落ち着いてほしくない。優柔不断な僕らの代表でいてほしい。なんて、なんかシニカルに書いてますが、僕は五十嵐さんの歌が聴ければそれでよいのです。いつか『健康』ってアルバム出してくれるまで応援し続けますって書こうとしたけど、『HELL-SEE(ヘルシー)』が出てるので先手を取られた感じです。座布団一枚。だから今度は『Healthy』を是非(想像したら笑えてきましたが)。
今度のライブは東京二日間行く予定です。何事もなければ。すっかりライブに行かなくなったけれど、syurpだけは行く気になる。まだまだファンのようで、自分でなぜか安心した。
おわり。